『保育園受かった日本生きろ』に向かうしか…
(これねぇ、書くかどうか迷ったんだよ。
ブログ始めて早々、政治的な話題を持ち込むってことにも気の迷いがあったし、他にも書きたいことあったから。
でも、なんかこれ書いとかないと、心の突っ張り棒が無駄に自己主張を始めそうなのでね、ごめんなさい。)
今年の新語・流行語大賞、「神ってる」が選ばれた。
そんな中、「保育園落ちた日本死ね」がトップテンに入っている。
このことをめぐって、色々な意見が飛び交っている。
メディアに出回りだした当初から物議を醸していた言葉だ、ここにきて議論が再燃するのは当然とも言える。
うむ、確かに「死ね」は誰かを罵るときに使われる言葉だ。
そんな単語が入った言葉が流行語になる。
それに対する抵抗感は分からないではない。
この言葉のトップテン入りは別に褒められたことではない。
それは単に暴言に類する言葉だから、というのではなく、日本という国が抱える問題をこのような仕方で争点化させることになってしまったから。
「日本死ね」という言葉。
冷静に眺めてみれば、正直よく分からない。
「日本」とだけ名指された存在は果たしてどんなものなのか。
それに「死ね」と詰め寄る、それがどんな状況なのか。
よく分からないが、その悲痛さは伝わってくる。
「日本」としか名指せないよく分からない存在。
よく分からないが、圧倒的に力の及ばぬ存在。
現にこの言葉を発された方は、そう呼ぶしかなかったのだろう。
何に立ち向かっているかも分からないが、立ち向かうしかない。
子育て、というフィールドでだ。
そんな状況に投げ出されているとしたら、それはあまりにも残酷に思える。
まして、子どもをしっかりと育てたいと願う親に、この言葉を吐露させるとしたら、この言葉の責任はその発言者に問えるのだろうか。
「こんな汚い言葉が茶の間に出てくるのはけしからん」
と言いたいその気持ち。
分からないではない。
分からないではないのだが、分かりたいわけでもない。
「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、ここまで広まり、力を持った理由。
それは、そのセンセーショナルな響きだけに留まらず、どこかしらに自らの境遇の代弁だと感じる方々がいたからであろう。
もちろん、政治的に考えるのなら、そのセンセーショナルな響きはプロパガンダとして有用性がある。
だが、この言葉は一人の親御さんがしたためている、ブログで発されたものだ。
確かな心情の吐露として受け止める他はないであろう。
『保育園受かった日本生きろ』
なんて言葉が、新語・流行語大賞入りするような”日本”を目指すほかないのではないだろうか。
常に、明るい意見の表明だけが、変化を生み、生活を豊かにしていくわけではない。
人間は、そこまでできた生き物ではない。
時に、敵対性を持った表明が、現実と理想の間隙を縫って貫き、目を覚まさせてくれることもあるのだろうと思う。
その字面にとらわれず、その言葉が、どのような状況に置かれた誰によって発せられたのかを眺める視座をとることも大切な気がする。
p.s.
この話しはちょうど、昨日、小生のTwitterの方でも話題にした。
小生自身、とあるユーザーと、このことで見解の相違があり、醜い、議論とも呼べぬ泥仕合いを繰り広げた。
小生の意見の根幹として伝えたいことは、新語・流行語大賞で件の言葉がトップテン入りしたことを擁護する、などといったことではない。
その言葉がトップテン入りすることによって、社会的な公共の福祉に支障をきたすと考える方がいるのであれば、トップテン入りの取り消しでもなんでも求めればいいと思う。
小生は「保育園落ちた日本死ね」という言葉自体を、ともすると否定するような立場をとられる方々に対しての違和感を表明している。そのことはご了承いただきたい。
また、「保育園落ちた日本死ね」をヘイトスピーチだと主張している方々もいらっしゃるようだが、その指摘は全く的外れであるということも併せて示しておきたい。
「日本」と名指されている存在の定義が曖昧であること、この表現が何らかの差別やヘイトクライムを助長する要因になっているとは考えにくいこと、などから納得していただけると思う。
ただ、このようなロジックをいいことに、ヘイトスピーチを、あたかもそうではないかのようにして行うようなレイシストがいるであろうことは想像に難くないので、その点については注意を促したい。