『乖離』とチャップリン
ここのところ、小生は『乖離』というものに頭を悩ませている。
シリア、アレッポでの残虐極まりない殺戮のその同じ日に、この日本では何ら変わることない日々が送られている。
別にそれが悪いとかいいとか、そんなことを問いたいわけではない。
もしそれをするなら、小生は臆せずに言う、「偽善である」と。
ただ、小生にはその目に余る『乖離』とうまく付き合うだけの器用さがない。
ところで、12月7日、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・カナダはアレッポでの停戦に関する共同声明を発表している。
一方、日本はどうか。
プーチンとの会談を控えていた日本は、シリア体制派を支援しているロシアとの関係悪化を恐れて、静観を決め込んだように見えた。
平和を希求して止まないはずの国がこの体たらくである。
理想に対する圧倒的な『乖離』である。
もう少し耳目をひいてもよさそうなものなのだが。
とは言っても、世界中で日々、アレッポに類するようなことは起きているのだとも思う。
小生自身がそういった出来事について常に心を寄せ、考えているのか、と言われればそうではない。
この点においては、自身についての『乖離』を認めなければならないわけだ。
そんな折、ふと思い立ってチャップリンの”The Great Dictator”を観た。
この映画、ラストの演説のシーンはあまりにも有名である。
小生はあのスピーチのシーン、何度観ても鳥肌が立つ。
迷いながらも、人間の存在に関する可能性を鮮やかに、鋭く、高らかに言い放つその様は、色褪せることのないカッコよさがある。
ただ、小生はその演説自体よりも、むしろ、その直後にハンナに語りかけるシーンの方に魅力を感じている。
あのまま、聴衆の前で喝采を受けるトメニアの皇帝に扮した一人の理髪師、のカットであの映画が終わっていたならば、それは単に、新たな独裁者の誕生を描くことになったのではないか、と思うのだ。
ただ、彼はそこからハンナに語りかける。
一人のしがない理髪師という、本来の彼の姿に限りなく接近する。
『乖離』を乗り越えて、理髪師は彼自身として聴衆の前に立つことを選んだのだな、となんとなくホッとする。
無論、彼はそもそも軍服を着て収容所を出る時点から、恐る恐るという感じなので、新たな独裁者になろうと思うはずもないのだろうが。
だが、それでも、あの聴衆の熱狂に当てられてなお、彼が自らの姿を保ち続ける、あのシーンは、小生にとって本当に価値のある一場面である。
さて、話しを小生自身に戻すとしよう。
『乖離』
こいつはなかなかに手強い。
一つでも目につくと、芋づる式に、あれも、これもと指し示していく羽目になる。
かと言ってそれが無駄だとも、単なる悲観だとも思わない。
今は、その『乖離』が持つ冷酷さ、と言えばいいか、意図しない残虐さのようなものに、改めて直面しているのだと、そのあまりにも鋭利な切っ尖に尻込みしているのだと思う。
少し準備をして、可能性を見つけられれば、どうにかなるはず。
偉大な先人方にヒントをもらえる、なんて幸運なことなんだろうか。
チャップリンが言ったように、人の手による発明を、我々の距離を縮めるためにこそ、用いたいものだ。