結果論

「結果論」という言葉は諸刃の剣だと思っている。


時にそれはプロセスを無に帰し、また逆にプロセスへの注目を促すこともある。


言葉の用い方、同じ言葉を使うにしても、それが最終的に何への指向性を持つのかには常に気をつけていたい。

自分が用いるときにも、受容するときにも。


と、まぁここまでの話しは単なる前置きである。


今回、小生がしたためたいのは、恋愛における結果論。


昨今、LGBTという言葉は広く知られるようになっている。

総括して『性的マイノリティ』と呼称されているが、小生はこの呼び方にかなりの違和を感じている。


自分がヘテロセクシャルなのか、ホモセクシャルなのか、バイセクシャルなのか。

トランスジェンダーなのか、それともどれにも当てはまらない性のグラデーションに在るのか。


そんなのは結果論なんじゃないかという気がする。


小生自身は、いま現在、ヘテロセクシャル異性愛者であろうと、自己を規定している。


だが、この先、何らかのきっかけで、ある男性のことを好きになることもあるかもしれない。

そのとき小生は、自身がトランスジェンダーであることに気づくかも知れないし、ゲイであると気づくのかも知れない。


「この先も俺はずっと異性愛者だ」という言明を小生がするとしよう。

それは、単なる思い込みの域を出ない。

自己をそう規定するから、そうなる。

その自己の規定は、おそらく従来の社会通念から影響を受けてのものだろう。


そういう意味で言えば、そもそも「男性」「女性」「それ以外」のような分類自体が疑わしい。

確かに遺伝子的に、体の構造的に分類することは可能かもしれない。

ただそこに「男性像」「女性像」のような価値が盲目的に付随するというのは、あまりにも短絡的ではないだろうか。


だから小生はこういうことも疑う。


人が人を好きになるとき、それはその人自身を愛しているのか、それとも、その人に付随した属性を好んでいるだけなのか。


勘違いして欲しくないので記述するが、これは別に、どちらかが純粋であるとか、不純であるとか、個々の恋愛がどちらかの性質にあるといった分断を迫る意図はない。


おそらく、恋愛というのはこの両者が複雑に入り組んでいるし、それをあれこれ考えるのも度が過ぎれば野暮だ。


さて、『性的マイノリティ』と少数であることを殊更に強調する人々がいる一方、対立するマジョリティ自体が本当に存在するのか。

マジョリティをマジョリティ足らしめているのは、単なる思い込みに対する盲目的な追従なのではないか。

もしそうなら、そこにはマイノリティもマジョリティも存在しないはずだ。


各々の在り方を、できるだけ思い込みから遠ざかったところから考え直してみたい。