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サイボーグの"Post-Modern Times"

昨日、友人のライブを観に行ってきた。

彼が奏でた音楽はとても味わい深く、小生はひたすらに聴き入っていた。


そんな中、彼が歌っていた言葉の中で、聴き入っていた小生を、しばし思索に誘うものがあった。


正確には覚えていないのだが、こんな感じだったはず「僕はサイボーグ、機械になりきれない男」。


いや、少し違ったかもしれない。

しかしながら、そこは愛嬌ということでお許し願いたい。


この言葉を聴いて、小生はチャップリンの"Modern Times"を思い出した。


この物語は、工場に勤める男が主人公である。

この男、とても気がいいヤツなのだが、工場労働の耐え難い管理によって、心と身体の歪みが飽和し、終いには暴発させてしまう。

そんな愛すべき男が、パートナーを見つけ、生きたいような生き方に歩んでいく様を、笑いと少しの寂寥を織り交ぜながら描いている。


この映画のラストシーン。

その男と、彼のパートナーが二人並んで、どこに続くのか分からない道を歩いていく後ろ姿、のカットで終わると記憶している。


このカットは、我々に何を語るのか。


管理からの、フォーディズム生産様式からの完全なる解放なのか。

それとも、チャップリン自身は答えを、観ている我々に託したのか。


小生は後者に賭けたい。

もし、彼が我々に単なる答えを提示しようとしているとすれば、それは解放への管理になりはしないか。

それは彼の望むところではないと思うのだ。

そして何より、完全なる解放などというものは存在し得ない。


であるとするならば、彼は我々自身が頭を悩ませるために、留保を付したのだと、そう捉えたい。


"Modern Times"が公開されてから、経った年月は80年と少し。時代は変わった。


Post-Modernと言う言葉さえ、どこか使い古された感が否めない。


しかしながら、人間それ自身は、変わっていっている時代に追いつけていないように見える。


"Modern Times"から"Post-Modern Times"に。

部品のように扱われていた人間は、その身に機械のごとき意思を宿すことを余儀なくされ、サイボーグになっていく。


小生も機械になりきれないクチである。


サイボーグ、なんとなくしっくりくる。


サイボーグたちが織りなす、"Post-Modern Times"という物語の中でどのように面白く生きていけるのか。


型落ちのサイボーグは、型落ちのサイボーグなりに、思索を巡らせていく他なさそうである。


余談だが、"Modern Times"のポーレット・ゴダードは最高である。

そして何より、チャップリンがje cherche après titineをデタラメに歌うところは、何度観ても飽きない。

もし、観ていない方がいらっしゃれば、ぜひご観賞いただきたい。