EXPO : 人類の進歩と調和

おととい、知り合いの役者さん、浅野千鶴さんがご出演なさっているお芝居を観に行った。


千鶴さんの作品についてしたためるのは、これが2度目になる。


そのお芝居、『エキスポ』というタイトルなのだが、ご想像の通り、1970年大阪万博当時が舞台である。

とは言っても、芝居が展開されるのはそのお膝元、大阪ではなく、九州は宮崎。


ある家族の、お母さんを送る葬式にまつわるストーリーだ。


そのお母さんの最期の言葉は

「これが人類の進歩と調和げな」

というものだったそう。


というのも、テレビで万博の放送を観ているときにポックリ逝ってしまったらしい。

なんとも圧巻の最期である。


その破天荒なお母さんの最期に引けを取らず、お芝居の方も、とてもパワフルに、展開される。


だが、今日したためるのは、そのお芝居自体について、ではない。


「人類の進歩と調和」という言葉について、である。


昨今の社会の風景を眺めていると、「人類の進歩と調和」という言葉はあまりにも似つかわしくない。

どうしようもなく浮遊して、収まるところも分からずに彼方此方とフラフラしていそうだ。


そんな言葉を恥ずかしげも無く用いることができたのは、熱狂の充満した雰囲気にあったから、なのか、それとも、本当にその言葉が馴染む風景だったから、なのか。


小生が生きていた時代ではないので、確かなことは分からないものの、色々と想像してみる。


もし、「人類の進歩と調和」という言葉が似つかわしい社会であったとしたなら、その言葉を疑わずにすんだ社会があったとしたなら、それってすごいことだと思うのだ。


いや、実際にそんな社会になったとしても、小生のことだから「欺瞞だ!」とかなんとかイチャモンをつけるのだろうが…


この先、「人類の進歩と調和」という言葉が、その社会の風景に似つかわしく見える時が来るのだろうか。


来る、というか、来させられるのならば、ぜひ見てみたいものだ。


そして、できるなら「これが人類の進歩と調和か…」との一言を遺し、人生の幕引きとしたいものである。