"Nuovo Cinema Paradiso"
"Nuovo Cinema Paradiso"という映画をご存知だろうか。
「映画」という芸術の中で星の数ほどの作品が、クリスマスに大切な人々と囲む食卓を彩るご馳走よろしく、丹精込めて創られてきた。
映画館の席に着き、広告が流れる。この時間は上映前の小休止。日常から這い出てきて、これから始まるストーリーに身を委ねる準備をする。
劇場の明かりが落とされ、スクリーンだけが光を放ち始める。どんな作品も最初の何分かは、心地のいい身の委ね方を模索する。焦らずに、落ち着いてその世界との距離を測る。
スクリーンの中の世界が目まぐるしく展開していく。その流れに身を委ねられれば、その世界が締めくくられるまではあっという間だ。だが、時として、身を委ねられないこともあろう。それもまた好い。
いざ、その結びの瞬間がくる。委ねていた身を優しく抱擁してくれる時もあれば、はたまた、その身が突然支えを失う時もある。あるいは、その結びとともに、委ねられずにいた身のやり場に気づくこともあるだろうか。
こうしてみると、映画というのは、いよいよコース料理のようだ。
前菜から始まり、お茶と小さなお菓子でその締めくくりをする。
いい映画を観た時には、コーヒーと甘味とともに、その余韻をゆっくりと味わいたくなるものだ。
この映画というコースメニューは洋の東西を問わず、あらゆる人々を魅了し、虜にしてきた。
その中でも、多くの人々の記憶に永く永く刻み込まれるようなメニュー、名作となると、その数は限られる。
”Nuovo Cinema Paradiso”、『ニュー・シネマ・パラダイス』はそんな作品の一つだ。
お恥ずかしいことに、小生はこの映画をつい先日、やっと観ることができた。
何年も前から観たいとは思っていたものの、叶わず、そうこうするうちに失念してしまっていた。
思い出すきっかけになったのは、知り合いの役者さんとご一緒した時のことである。
ふと映画の話になり、「あれは本当に観た方がいいよ」との助言をいただいた。
だが、いざ観ようと思うと、そのあまりにも高い評価に尻込みしてしまう。
これもまた情けない話だ。
そんな折、原田マハさんの『キネマの神様』という本を読んだ。
この本についても、機会があればしたためたいのだが、ここでは割愛することとする。
その本の中で、この"Nuovo Cinema Paradiso"がとても愛おしく語られていた。
『キネマの神様』読了後、ついに決心がついた小生は、"Nuovo Cinema Paradiso"を観た。
いやはや、なんて素敵な作品なのだろうか。
観ていない人へのネタバレになってしまうと嫌なので、詳述は避けるが、少しだけ感想を。
シチリアの小さな村にある、唯一の娯楽と言っていい、これもまた小さな映画館。
その映画館の映写室から、一筋の光が観客の頭越しに放たれる。
フィルムを通ったその光は、スクリーンに届くと同時に物語を紡ぐ。
その物語の仕掛け人は、映写技師のアルフレード。
少年トトは秘密基地のような映写室という空間に興味津々。
アルフレードはそんなトトに手を焼きながらも、次第に可愛がるようになっていく。
トトの純粋な映画に対する憧れ。
観ているこっちもワクワクする。
それでいて、その純粋さが持つ危うさにヒヤヒヤさせられたり、はたまた一種のノスタルジーを感じる。トトが持つ憧れの純粋さに憧れるのだ。
この後、トトとアルフレード、そして村にとっても大変なことが起こるのだが、これを言ってしまっては、ネタバレもネタバレなので控える。
青年になったトト。
小生と大して変わらない年頃であろう。
恋と焦燥。
そんな代わり映えのしない、使い古されたテーマも、この作品の中ではクドくない。
むしろ愛おしく思いさえする。
これはもはやネタバレだが、エレナ、トトの想い人が映写室に現れるあのカット。
小生のお気に入りである。
打ちひしがれたトトの背後に現れるエレナ。
そのエレナを抱きしめるトト。
映写室と区切られた部屋に、エレナを抱きとめたまま、伴っていくトト。
その様子を部屋の側面から、壁を横切り、二人を舐めるようして追いかけるカメラ。
二人を邪魔することなく、それでいてしっかりと眺めることのできるアングル。
素晴らしく素敵である。
この先もまた語りたいことばかりなのだが、それはいささか語りすぎであるという気もするので、最後、よく知られたラストシーンを語って結びの代わりとしたい。
とは言っても、ここでも詳述は避けたい。
小生が語ることが、誰かの初めての"Nuovo Cinema Paradiso"の邪魔になるようなことがあってはならないと思うからだ。
ラストシーン。
あのラストは堪らない。
ともすると、トト自身が忘れていたのかもしれない、その思い出が何十年もの時を経て繋がる瞬間が、このラストなのだ。
映し出されるそのシーンには一つの共通点がある。
華やかで、妖しく、魅惑的だが、それがゆえに秘匿されなければならなかったカットの数々。
それらのカットが、一瞬一瞬の、美しさ、儚さの奔流となってトトの眼前を覆い尽くす。
おそらく、この作品、観る度に感じるものが変わるのだろう。
小生が様々な経験をしていく度に。
小生が変わっていっても、この作品は変わらない。
その再現性が映画の面白いところである。
作品自体は何をどう足掻こうが変わらない。変わるのは受容者の側でしかありえない。
時を経て、この作品を観る度に変容していくであろう、小生の感じ方。
その感じ方の変化は、そのまま小生の変化ということだ。
これから、"Nuovo Cinema Paradiso"はどんな小生の変容を教えてくれるのだろうか。
生きていく楽しみが、また一つ増えた。
『乖離』とチャップリン
ここのところ、小生は『乖離』というものに頭を悩ませている。
シリア、アレッポでの残虐極まりない殺戮のその同じ日に、この日本では何ら変わることない日々が送られている。
別にそれが悪いとかいいとか、そんなことを問いたいわけではない。
もしそれをするなら、小生は臆せずに言う、「偽善である」と。
ただ、小生にはその目に余る『乖離』とうまく付き合うだけの器用さがない。
ところで、12月7日、アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリア・カナダはアレッポでの停戦に関する共同声明を発表している。
一方、日本はどうか。
プーチンとの会談を控えていた日本は、シリア体制派を支援しているロシアとの関係悪化を恐れて、静観を決め込んだように見えた。
平和を希求して止まないはずの国がこの体たらくである。
理想に対する圧倒的な『乖離』である。
もう少し耳目をひいてもよさそうなものなのだが。
とは言っても、世界中で日々、アレッポに類するようなことは起きているのだとも思う。
小生自身がそういった出来事について常に心を寄せ、考えているのか、と言われればそうではない。
この点においては、自身についての『乖離』を認めなければならないわけだ。
そんな折、ふと思い立ってチャップリンの”The Great Dictator”を観た。
この映画、ラストの演説のシーンはあまりにも有名である。
小生はあのスピーチのシーン、何度観ても鳥肌が立つ。
迷いながらも、人間の存在に関する可能性を鮮やかに、鋭く、高らかに言い放つその様は、色褪せることのないカッコよさがある。
ただ、小生はその演説自体よりも、むしろ、その直後にハンナに語りかけるシーンの方に魅力を感じている。
あのまま、聴衆の前で喝采を受けるトメニアの皇帝に扮した一人の理髪師、のカットであの映画が終わっていたならば、それは単に、新たな独裁者の誕生を描くことになったのではないか、と思うのだ。
ただ、彼はそこからハンナに語りかける。
一人のしがない理髪師という、本来の彼の姿に限りなく接近する。
『乖離』を乗り越えて、理髪師は彼自身として聴衆の前に立つことを選んだのだな、となんとなくホッとする。
無論、彼はそもそも軍服を着て収容所を出る時点から、恐る恐るという感じなので、新たな独裁者になろうと思うはずもないのだろうが。
だが、それでも、あの聴衆の熱狂に当てられてなお、彼が自らの姿を保ち続ける、あのシーンは、小生にとって本当に価値のある一場面である。
さて、話しを小生自身に戻すとしよう。
『乖離』
こいつはなかなかに手強い。
一つでも目につくと、芋づる式に、あれも、これもと指し示していく羽目になる。
かと言ってそれが無駄だとも、単なる悲観だとも思わない。
今は、その『乖離』が持つ冷酷さ、と言えばいいか、意図しない残虐さのようなものに、改めて直面しているのだと、そのあまりにも鋭利な切っ尖に尻込みしているのだと思う。
少し準備をして、可能性を見つけられれば、どうにかなるはず。
偉大な先人方にヒントをもらえる、なんて幸運なことなんだろうか。
チャップリンが言ったように、人の手による発明を、我々の距離を縮めるためにこそ、用いたいものだ。
空を見上げて想ふこと
このところ、ブログを更新できずにいた。
と言っても、書いていないわけではないのだ。
毎日、毎日、下書きを書いては、こんなまとまってないもの、皆様の眼前には出せない、と思ってしまう。
流麗で、かつ、鋭い言葉が綴れなければ、シェアしようという気にはなれない。
言語を扱う学問と向き合うものとして、そして、ペンの力は核兵器にも勝ると信じている者として、ここは譲れない一線である。
さて、だが今日はそんな毎日とは打って変わって、小生の意思に適う言葉が綴れそうである。
今回のタイトルは、『空を見上げて想ふこと』
文頭にあと五音付け加えれば、俳句として成立するのだが、そんな風にまとめてしまうと、小生がここで言葉を綴る必要がなくなってしまいかねないために、控えさせていただいた。
小生は、このところ、来る日も来る日も夜になると空を見上げている。
この東京の狭い空に星を見つけてみたいな、と思うのだ。
その折々に、常々想うことがある。
「人間というのは随分と勝手なものだな」と。
自ら、その街を、都市を住みやすくしようと灯りを点す。
背が高く、豪奢な建築を、バベルの塔のように建てる。
その結果、星の光は我々の目には届かず、空は不自然なほどに切り詰められて息苦しい。
にもかかわらず、我々は、小生は、空を見上げてしまう。
その狭い空に、光が打ち消された空に、星を求めて。
全くもって勝手な話しだ。
その業を背負っているのは、他でもない、小生を含めた我々自身なのだから。
見えたはずの星を消したのは誰なのか。
明確に名指すことは困難だろうが、その業を背負うのが人類自身であることは避けられそうにない。
これを「業」と捉えるか、発展の代償と捉えるか、それとも何も思わないのか。
どの捉え方も、それぞれに成立しそうではある。
だが、少なくとも小生には、業であるように思えてならない。
「なぜ?」と改めて問われると、正直、答えに窮するのだが。
何か象徴的な気がするのだ。
星の光を打ち消しておきながら、一方でその光を求める。
誰に責任を負わせられるものでもないが、何か遣る瀬ない。
歯痒い、言い表すことが困難な、それでいて厳然とした違和。
矛盾、と。
こう言ってしまえば、あまりにもありふれたものかもしれない。
小生は、矛盾のない世界を希求しているわけではない。
矛盾がある、今ここ、で、何を思い、考え、行動するのか。
けっきょく、この問いに行き着いてしまう。
空を見上げて何を想ふか、結局の所、想起するのは常に悩んでいる問い。
しかし、至るプロセスが違えば、多少なりとも見えてくるものは違ったりするのだ。
『保育園受かった日本生きろ』に向かうしか…
(これねぇ、書くかどうか迷ったんだよ。
ブログ始めて早々、政治的な話題を持ち込むってことにも気の迷いがあったし、他にも書きたいことあったから。
でも、なんかこれ書いとかないと、心の突っ張り棒が無駄に自己主張を始めそうなのでね、ごめんなさい。)
今年の新語・流行語大賞、「神ってる」が選ばれた。
そんな中、「保育園落ちた日本死ね」がトップテンに入っている。
このことをめぐって、色々な意見が飛び交っている。
メディアに出回りだした当初から物議を醸していた言葉だ、ここにきて議論が再燃するのは当然とも言える。
うむ、確かに「死ね」は誰かを罵るときに使われる言葉だ。
そんな単語が入った言葉が流行語になる。
それに対する抵抗感は分からないではない。
この言葉のトップテン入りは別に褒められたことではない。
それは単に暴言に類する言葉だから、というのではなく、日本という国が抱える問題をこのような仕方で争点化させることになってしまったから。
「日本死ね」という言葉。
冷静に眺めてみれば、正直よく分からない。
「日本」とだけ名指された存在は果たしてどんなものなのか。
それに「死ね」と詰め寄る、それがどんな状況なのか。
よく分からないが、その悲痛さは伝わってくる。
「日本」としか名指せないよく分からない存在。
よく分からないが、圧倒的に力の及ばぬ存在。
現にこの言葉を発された方は、そう呼ぶしかなかったのだろう。
何に立ち向かっているかも分からないが、立ち向かうしかない。
子育て、というフィールドでだ。
そんな状況に投げ出されているとしたら、それはあまりにも残酷に思える。
まして、子どもをしっかりと育てたいと願う親に、この言葉を吐露させるとしたら、この言葉の責任はその発言者に問えるのだろうか。
「こんな汚い言葉が茶の間に出てくるのはけしからん」
と言いたいその気持ち。
分からないではない。
分からないではないのだが、分かりたいわけでもない。
「保育園落ちた日本死ね」という言葉が、ここまで広まり、力を持った理由。
それは、そのセンセーショナルな響きだけに留まらず、どこかしらに自らの境遇の代弁だと感じる方々がいたからであろう。
もちろん、政治的に考えるのなら、そのセンセーショナルな響きはプロパガンダとして有用性がある。
だが、この言葉は一人の親御さんがしたためている、ブログで発されたものだ。
確かな心情の吐露として受け止める他はないであろう。
『保育園受かった日本生きろ』
なんて言葉が、新語・流行語大賞入りするような”日本”を目指すほかないのではないだろうか。
常に、明るい意見の表明だけが、変化を生み、生活を豊かにしていくわけではない。
人間は、そこまでできた生き物ではない。
時に、敵対性を持った表明が、現実と理想の間隙を縫って貫き、目を覚まさせてくれることもあるのだろうと思う。
その字面にとらわれず、その言葉が、どのような状況に置かれた誰によって発せられたのかを眺める視座をとることも大切な気がする。
p.s.
この話しはちょうど、昨日、小生のTwitterの方でも話題にした。
小生自身、とあるユーザーと、このことで見解の相違があり、醜い、議論とも呼べぬ泥仕合いを繰り広げた。
小生の意見の根幹として伝えたいことは、新語・流行語大賞で件の言葉がトップテン入りしたことを擁護する、などといったことではない。
その言葉がトップテン入りすることによって、社会的な公共の福祉に支障をきたすと考える方がいるのであれば、トップテン入りの取り消しでもなんでも求めればいいと思う。
小生は「保育園落ちた日本死ね」という言葉自体を、ともすると否定するような立場をとられる方々に対しての違和感を表明している。そのことはご了承いただきたい。
また、「保育園落ちた日本死ね」をヘイトスピーチだと主張している方々もいらっしゃるようだが、その指摘は全く的外れであるということも併せて示しておきたい。
「日本」と名指されている存在の定義が曖昧であること、この表現が何らかの差別やヘイトクライムを助長する要因になっているとは考えにくいこと、などから納得していただけると思う。
ただ、このようなロジックをいいことに、ヘイトスピーチを、あたかもそうではないかのようにして行うようなレイシストがいるであろうことは想像に難くないので、その点については注意を促したい。
「ぶろぐ」ってものをやってみようと
なんとなく、ブログってものをやってみようかと思い立った。
そもそも、何事も飽きると続かないタチであるところの福井周。
気が向いたときに、日記代わりにでも認めてみようかと思う。
もののついでに、一つだけ。
一週間ほど前に原田マハさんの『リーチ先生』を読んだ。
彼女の文章は本当に綺麗で、活き活きしてる。
彼女の小説の題材は、芸術であることが多い。
『リーチ先生』では、イギリス人の陶芸家、バーナード=リーチについての物語になっていた。
元々、彼女の『楽園のカンヴァス』を読んだことで、絵画についての興味をかき立てられた小生である。
例に漏れず、また新しい芸術への扉を開いてもらうことになった。
特に小生が惹かれたものは、実在する人物であり、登場人物の中でも重要な役割を担っていた柳宗悦の「用の美」という考え方。
作品が単に飾られるに留まらず、使われていく中での美しさがある。実用性の伴った芸術、というあり方を語っている。
このような捉え方をするのは、ともすれば無粋かもしれないが、単に飾られている作品としての芸術作品にも、この一面を見出すことは、十分に可能なのではないだろうか。
その絵画か、はたまた彫刻かは分からないが、その作品を見た、という経験によって、その人のその後の生き方に変化が起こる。それが意識的なものか、無意識的なものか、そこは大きな問題ではない。ある種、その作品をその人の生き方の中で”実用的”に使うことのできる可能性が、そこに示されている。と思うのだ。
このブログ、ShuMochyoshi`s blog という名前にしているのだけれど、その「もちよし」は「用美」、つまり、とここまで口にしまっては無粋が過ぎるように思われるので、このあたりで締めさせていただこう。
また気が向いたら、新たに認めよう。