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空を見上げて想ふこと

このところ、ブログを更新できずにいた。

と言っても、書いていないわけではないのだ。

毎日、毎日、下書きを書いては、こんなまとまってないもの、皆様の眼前には出せない、と思ってしまう。

流麗で、かつ、鋭い言葉が綴れなければ、シェアしようという気にはなれない。

言語を扱う学問と向き合うものとして、そして、ペンの力は核兵器にも勝ると信じている者として、ここは譲れない一線である。

 

さて、だが今日はそんな毎日とは打って変わって、小生の意思に適う言葉が綴れそうである。

 

今回のタイトルは、『空を見上げて想ふこと』

 

文頭にあと五音付け加えれば、俳句として成立するのだが、そんな風にまとめてしまうと、小生がここで言葉を綴る必要がなくなってしまいかねないために、控えさせていただいた。

 

小生は、このところ、来る日も来る日も夜になると空を見上げている。

 

この東京の狭い空に星を見つけてみたいな、と思うのだ。

 

その折々に、常々想うことがある。

 

「人間というのは随分と勝手なものだな」と。

 

自ら、その街を、都市を住みやすくしようと灯りを点す。

背が高く、豪奢な建築を、バベルの塔のように建てる。

 

その結果、星の光は我々の目には届かず、空は不自然なほどに切り詰められて息苦しい。

 

にもかかわらず、我々は、小生は、空を見上げてしまう。

 

その狭い空に、光が打ち消された空に、星を求めて。

 

全くもって勝手な話しだ。

 

その業を背負っているのは、他でもない、小生を含めた我々自身なのだから。

 

見えたはずの星を消したのは誰なのか。

明確に名指すことは困難だろうが、その業を背負うのが人類自身であることは避けられそうにない。

 

これを「業」と捉えるか、発展の代償と捉えるか、それとも何も思わないのか。

どの捉え方も、それぞれに成立しそうではある。

 

だが、少なくとも小生には、業であるように思えてならない。

 

「なぜ?」と改めて問われると、正直、答えに窮するのだが。

 

何か象徴的な気がするのだ。

 

星の光を打ち消しておきながら、一方でその光を求める。

 

誰に責任を負わせられるものでもないが、何か遣る瀬ない。

歯痒い、言い表すことが困難な、それでいて厳然とした違和。

 

矛盾、と。

こう言ってしまえば、あまりにもありふれたものかもしれない。

 

小生は、矛盾のない世界を希求しているわけではない。

 

矛盾がある、今ここ、で、何を思い、考え、行動するのか。

 

けっきょく、この問いに行き着いてしまう。

 

空を見上げて何を想ふか、結局の所、想起するのは常に悩んでいる問い。

しかし、至るプロセスが違えば、多少なりとも見えてくるものは違ったりするのだ。