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現実の外縁と虚構とその狭間で。

おそらく、こうしてしたためているこの記事は、何回かに渡って記していくことになると思う。

というのも、小生自身に少しばかり整理しきれていない部分があるからである。

 

何について書くのか、それをまず語るも良し。

しかしながら、タイトルがそれを想起させるならば、あえて語らないのも、また良しということであろう。

 

先日、知り合いの演出家の方がとても素敵な言葉をTwitterで綴られていた。

 

曰く。

 

『好きという気持ちや、愛や正義や、そういったものを声高に叫ぶことの気持ち悪さや、儚さや、嘘臭さを常に本能的に感じていて、俺は作家だから好きの代わりの言葉を探し、「愛してる」が陳腐にならない状況を作り、クソ野郎でも曲がらない正義を胸に抱くキャラクターを生むのだ。』

 

『もう勝ってるやつになんか興味ねぇ。足掻いてるやつが一番輝く世界を、例え虚構の中だとしても、作りたいのだ。

そいつらと一緒に足掻いて、遊んで、笑ってやる。

だからあんたら、もっともっと足掻け。もっともっともっと足掻け。美しいぞ。』

 

いや、これを目にした時、小生はゾクッとした。

気味が悪かったからではない。

ものすごく鋭く、小生が感じていることを射抜いていたのだ。

 

実際にいくつもの舞台で仕事をされ、小生自身その演出家・役者・脚本家としての、この方の姿を間近で見てきたことも相まって、これらの言葉は心地よい、いくらか強めの刺激を伴って心に落ちてきた。

 

単に水を得た魚のように、喜ぶばかりではない。

これらの言葉に、小生が見た真意はそれほど華やかなものではないからだ。

それは、皆さんにもわかっていただけることと思う。

 

現実の中で、時として渦巻く熱狂、掲げられる正義、堕落を伴う熱烈な愛。

当事者同士の記憶の中では、ものすごく価値のある瞬間として刻まれるであろうそれらは、虚構と限りなく接近した現実の外縁に息づいているいるような気がする。

その虚構との距離の近さに、白々しさを感じたり、嘘臭さを感じる。

 

だが一方、それを生きるよすがとする、というのもごく自然に為されることだ。

 

人は夢を持とうとする。

いや、もっと正確に言うなら、人は夢を持った方がいいと言われている。

もちろん小生にも夢はある。

果たして、その夢は現実の荒野に転がっているのか、それとも現実の外縁、虚構との隙間にある、そのわずかな隔たりに、辛うじて存在しているのか。

 

現実に辟易しているからこそ、虚構と現実の狭間にある、それゆえに虚構とも言えず、現実とも言えないものを志向しているのかもしれない。

 

いや、現実にないものを志向するからこそ「夢」なのであれば、それはある段階までは虚構であるはずだ。

では、その虚構が現実に姿を見せる時は来るのか。

 

堂々めぐりである。

こうなってくると何が現実かはわからない、というのが正直なところだ。

 

実存を疑うわけではない。

だが、「現実」と小生たちが呼称するそれは、どこまで純粋に『現実』なのか。

分からない。

 

いや、だからこそ面白いとも言えるのだが。

 

なんにせよ、足掻いている奴が最も美しい。

 

その足掻く姿は、虚構の中にあってこそ、人の目を引きつけるのかもしれない。

虚構は虚構であるがゆえに、軽々と現実を越えてゆける。

だが、一方でその虚構があまりにも虚構然としていると、途端に陳腐なものになる。

 

虚構の中に、どれほどの現実を息づかせるのか。

 

これはそのまま、現実の中にどれほどの虚構を息づかせるのか、ということにもなる。

 

どうなのだろう。

 

分からないことは分からないままに。

後味は悪いくらいが丁度いいのかもしれない。

 

そうならざるを得ないから、足掻くということなんだろうし、もし後味の良いものばかりしたためるとすれば、それは小生の陳腐さの表れになると思っている。

 

だから多分、再びこのことについて考えてしたためる時が、遅かれ早かれくるのだろう。

この思考は続いていく。

どの思考も続いていくことは変わらないのだが、これは特に複雑に絡まり合って容易には解消できそうもない。

 

また、したためる時にもお読みいただけるなら、幸いである。