眼光鋭く、耳を澄まし、鼻を効かせ、舌を肥やし、身体を投げ出し、頭を働かせろ。
お久しぶり。
といった感じだろうか。
長らく新たな記事をしたためることができずにいた。
記したいことは山ほどあったのだが、いかんせんまとまらずに下書きばかり増えてしまった。
溜まった下書きも、どこかで日の目を見るようにしてやりたいものだ。
さて、随分と長いタイトルをつけてみたが、要するに「五感を研ぎ澄ませ」ということだ。
なぜ今そんなことを言うのか。
小生、大学で『音楽マネジメント』なる講義を受けていた。
この講義とても面白いのだ。
芸術と社会との関係を様々な視座から検討する。
小生にとっては垂涎の題目だ。
つい先日、最後の講義があった。
そこで、先生が語ったのは、カナリアとしての芸術家という話し。
どういうことか。
カナリアは鉱山で、有害ガスの検出に重宝されていた。
社会でそんな役割を担っているのが芸術家だと言うのだ。
社会の均質化に逆らい、常に新たな創作意欲を糧に、今までにないものを生み出す。
そんな芸術家たちの営みは、単なる創作活動の域を超え、社会にとって実に価値のある行動として捉え直すことができる。
そんな芸術家たちの営みに、なるべく早くレスポンスし、その意義を伝えることが、アカデミックな側面から芸術に関わる上で大切なことだ、と彼は言っていた。
小生自身、創造するという芸術そのものへの志向と、アカデミックな視座から芸術に関わる、という狭間にいる人間である。
その先生の話しはとても示唆に富んだ内容であった。
ただ、一方で思うのは、創造活動をしている芸術家側は、アカデミックな視座から、自らの創造物を回収されることに常に好意的ではないのではないか、ということだ。
芸術作品の言語による回収は、時としてその作品を社会に対して記号として還元することを意味する。
小生がこれから、創造活動に比重をかけて行くとして、回収されることに好意的になれるか、と想像してみると、その限りにはない、と思ってしまう。
ただ一方で、作品の回収が芸術家の創作意欲を刺激するという一面もあるのだろう。
社会に対して、記号として還元される作品があるからこそ、芸術は従来の記号と等価なものとして回収されないものを生み出そうとする。
難しいところだ。
だが、もし小生がアカデミックな視座から芸術を眺める時には、できるだけ鮮やかで鋭い、その作品をできる限り記号に還元しないような言語を使いたいものである。
そしてもし、創造する側に回るなら、記号に還元しにくい、割り切れない本質に迫るようのものを創りたいものである。
そして、そんなことを望むのなら、五感を研ぎ澄まし、鋭い眼差しと鮮やかな表現を身につける他ないのだろう、と思うのだ。