久方ぶりに。

皆々様、ご機嫌は如何であろうか。

小生の方は相変わらずである。

 

日々の備忘録に類するものとしてしたためてきたこのブログなるものも、気づけば長いこと更新せずにいた。

備忘録の存在を忘れる、とはこれいかに。

 

本日は長ったらしく、なんらかの考えをブチあげるつもりはない。

地球上の重力に影響されているとは思えないほどの、重い筆をどうにかこうにか持ち上げてみたのだ。

ここは木星か、はたまた土星か。

長い記事をしたためようなどと企てたところで、とにかく重いのだ。無理はしない方がいい。

さもなければ、明日の朝、肩から先が上がらなくなる。きっとそうなる。

一応断っておくが、断じてネタがないというわけではない。

大事なことなので、もう一度言っておこう。

ネタがないというわけではない。

 

気づいてみれば、新年度も始まって一月が経とうとしている。

緑が初々しく、瑞々しく、爽やかなこの季節にあって、冬の残り香のごとく未だ葉を付けない木々を見ては、「お前はまだ裸なのだな」などといらぬ情けをかけてみたりしている今日この頃である。

 

裸といえば、極東のどこかの国には裸の首相がいる、と小生は耳にしたことがある。

その国にはどうやら、「物言わぬ多数派」なる魔物が巣食っているらしく、「彼奴は裸だ!」という指摘を鼻で嗤って亡き者とするそうだ。

当の裸の首相もまた相当なもので、なんでも、嘘に嘘を重ねるその様は、二枚舌ならぬ四枚舌、いやいやその自乗の一六枚舌だ、などと世間を騒がせているそうな。

いや、騒いでいるのは小生か。

 

まぁ、自らしたためておいてなんだが、こんな戯言はどうでも良い。

なんにせよ、嘘は嘘。デタラメはデタラメ。デジカメはデジカメ。いや、違うか。

 

真面目な話をすれば、安保法制に反対、テロ等準備罪にも反対、沖縄への米軍基地の押し付けにも反対、原発の再稼働にも反対、森友学園加計学園問題の究明を求め、立憲主義と民主主義を愛してやまない小生が、ややもすれば、鼻で嗤われている張本人なのかもしれぬ。

眼光鋭く、耳を澄まし、鼻を効かせ、舌を肥やし、身体を投げ出し、頭を働かせろ。

お久しぶり。

といった感じだろうか。

長らく新たな記事をしたためることができずにいた。

記したいことは山ほどあったのだが、いかんせんまとまらずに下書きばかり増えてしまった。

溜まった下書きも、どこかで日の目を見るようにしてやりたいものだ。

 

さて、随分と長いタイトルをつけてみたが、要するに「五感を研ぎ澄ませ」ということだ。

 

なぜ今そんなことを言うのか。

 

小生、大学で『音楽マネジメント』なる講義を受けていた。

 

この講義とても面白いのだ。

芸術と社会との関係を様々な視座から検討する。

小生にとっては垂涎の題目だ。

 

つい先日、最後の講義があった。

そこで、先生が語ったのは、カナリアとしての芸術家という話し。


どういうことか。

カナリアは鉱山で、有害ガスの検出に重宝されていた。


社会でそんな役割を担っているのが芸術家だと言うのだ。


社会の均質化に逆らい、常に新たな創作意欲を糧に、今までにないものを生み出す。

そんな芸術家たちの営みは、単なる創作活動の域を超え、社会にとって実に価値のある行動として捉え直すことができる。


そんな芸術家たちの営みに、なるべく早くレスポンスし、その意義を伝えることが、アカデミックな側面から芸術に関わる上で大切なことだ、と彼は言っていた。


小生自身、創造するという芸術そのものへの志向と、アカデミックな視座から芸術に関わる、という狭間にいる人間である。


その先生の話しはとても示唆に富んだ内容であった。


ただ、一方で思うのは、創造活動をしている芸術家側は、アカデミックな視座から、自らの創造物を回収されることに常に好意的ではないのではないか、ということだ。


芸術作品の言語による回収は、時としてその作品を社会に対して記号として還元することを意味する。


小生がこれから、創造活動に比重をかけて行くとして、回収されることに好意的になれるか、と想像してみると、その限りにはない、と思ってしまう。


ただ一方で、作品の回収が芸術家の創作意欲を刺激するという一面もあるのだろう。

社会に対して、記号として還元される作品があるからこそ、芸術は従来の記号と等価なものとして回収されないものを生み出そうとする。


難しいところだ。


だが、もし小生がアカデミックな視座から芸術を眺める時には、できるだけ鮮やかで鋭い、その作品をできる限り記号に還元しないような言語を使いたいものである。



そしてもし、創造する側に回るなら、記号に還元しにくい、割り切れない本質に迫るようのものを創りたいものである。


そして、そんなことを望むのなら、五感を研ぎ澄まし、鋭い眼差しと鮮やかな表現を身につける他ないのだろう、と思うのだ。 

EXPO : 人類の進歩と調和

おととい、知り合いの役者さん、浅野千鶴さんがご出演なさっているお芝居を観に行った。


千鶴さんの作品についてしたためるのは、これが2度目になる。


そのお芝居、『エキスポ』というタイトルなのだが、ご想像の通り、1970年大阪万博当時が舞台である。

とは言っても、芝居が展開されるのはそのお膝元、大阪ではなく、九州は宮崎。


ある家族の、お母さんを送る葬式にまつわるストーリーだ。


そのお母さんの最期の言葉は

「これが人類の進歩と調和げな」

というものだったそう。


というのも、テレビで万博の放送を観ているときにポックリ逝ってしまったらしい。

なんとも圧巻の最期である。


その破天荒なお母さんの最期に引けを取らず、お芝居の方も、とてもパワフルに、展開される。


だが、今日したためるのは、そのお芝居自体について、ではない。


「人類の進歩と調和」という言葉について、である。


昨今の社会の風景を眺めていると、「人類の進歩と調和」という言葉はあまりにも似つかわしくない。

どうしようもなく浮遊して、収まるところも分からずに彼方此方とフラフラしていそうだ。


そんな言葉を恥ずかしげも無く用いることができたのは、熱狂の充満した雰囲気にあったから、なのか、それとも、本当にその言葉が馴染む風景だったから、なのか。


小生が生きていた時代ではないので、確かなことは分からないものの、色々と想像してみる。


もし、「人類の進歩と調和」という言葉が似つかわしい社会であったとしたなら、その言葉を疑わずにすんだ社会があったとしたなら、それってすごいことだと思うのだ。


いや、実際にそんな社会になったとしても、小生のことだから「欺瞞だ!」とかなんとかイチャモンをつけるのだろうが…


この先、「人類の進歩と調和」という言葉が、その社会の風景に似つかわしく見える時が来るのだろうか。


来る、というか、来させられるのならば、ぜひ見てみたいものだ。


そして、できるなら「これが人類の進歩と調和か…」との一言を遺し、人生の幕引きとしたいものである。

サイボーグの"Post-Modern Times"

昨日、友人のライブを観に行ってきた。

彼が奏でた音楽はとても味わい深く、小生はひたすらに聴き入っていた。


そんな中、彼が歌っていた言葉の中で、聴き入っていた小生を、しばし思索に誘うものがあった。


正確には覚えていないのだが、こんな感じだったはず「僕はサイボーグ、機械になりきれない男」。


いや、少し違ったかもしれない。

しかしながら、そこは愛嬌ということでお許し願いたい。


この言葉を聴いて、小生はチャップリンの"Modern Times"を思い出した。


この物語は、工場に勤める男が主人公である。

この男、とても気がいいヤツなのだが、工場労働の耐え難い管理によって、心と身体の歪みが飽和し、終いには暴発させてしまう。

そんな愛すべき男が、パートナーを見つけ、生きたいような生き方に歩んでいく様を、笑いと少しの寂寥を織り交ぜながら描いている。


この映画のラストシーン。

その男と、彼のパートナーが二人並んで、どこに続くのか分からない道を歩いていく後ろ姿、のカットで終わると記憶している。


このカットは、我々に何を語るのか。


管理からの、フォーディズム生産様式からの完全なる解放なのか。

それとも、チャップリン自身は答えを、観ている我々に託したのか。


小生は後者に賭けたい。

もし、彼が我々に単なる答えを提示しようとしているとすれば、それは解放への管理になりはしないか。

それは彼の望むところではないと思うのだ。

そして何より、完全なる解放などというものは存在し得ない。


であるとするならば、彼は我々自身が頭を悩ませるために、留保を付したのだと、そう捉えたい。


"Modern Times"が公開されてから、経った年月は80年と少し。時代は変わった。


Post-Modernと言う言葉さえ、どこか使い古された感が否めない。


しかしながら、人間それ自身は、変わっていっている時代に追いつけていないように見える。


"Modern Times"から"Post-Modern Times"に。

部品のように扱われていた人間は、その身に機械のごとき意思を宿すことを余儀なくされ、サイボーグになっていく。


小生も機械になりきれないクチである。


サイボーグ、なんとなくしっくりくる。


サイボーグたちが織りなす、"Post-Modern Times"という物語の中でどのように面白く生きていけるのか。


型落ちのサイボーグは、型落ちのサイボーグなりに、思索を巡らせていく他なさそうである。


余談だが、"Modern Times"のポーレット・ゴダードは最高である。

そして何より、チャップリンがje cherche après titineをデタラメに歌うところは、何度観ても飽きない。

もし、観ていない方がいらっしゃれば、ぜひご観賞いただきたい。

現実の外縁と虚構とその狭間で。

おそらく、こうしてしたためているこの記事は、何回かに渡って記していくことになると思う。

というのも、小生自身に少しばかり整理しきれていない部分があるからである。

 

何について書くのか、それをまず語るも良し。

しかしながら、タイトルがそれを想起させるならば、あえて語らないのも、また良しということであろう。

 

先日、知り合いの演出家の方がとても素敵な言葉をTwitterで綴られていた。

 

曰く。

 

『好きという気持ちや、愛や正義や、そういったものを声高に叫ぶことの気持ち悪さや、儚さや、嘘臭さを常に本能的に感じていて、俺は作家だから好きの代わりの言葉を探し、「愛してる」が陳腐にならない状況を作り、クソ野郎でも曲がらない正義を胸に抱くキャラクターを生むのだ。』

 

『もう勝ってるやつになんか興味ねぇ。足掻いてるやつが一番輝く世界を、例え虚構の中だとしても、作りたいのだ。

そいつらと一緒に足掻いて、遊んで、笑ってやる。

だからあんたら、もっともっと足掻け。もっともっともっと足掻け。美しいぞ。』

 

いや、これを目にした時、小生はゾクッとした。

気味が悪かったからではない。

ものすごく鋭く、小生が感じていることを射抜いていたのだ。

 

実際にいくつもの舞台で仕事をされ、小生自身その演出家・役者・脚本家としての、この方の姿を間近で見てきたことも相まって、これらの言葉は心地よい、いくらか強めの刺激を伴って心に落ちてきた。

 

単に水を得た魚のように、喜ぶばかりではない。

これらの言葉に、小生が見た真意はそれほど華やかなものではないからだ。

それは、皆さんにもわかっていただけることと思う。

 

現実の中で、時として渦巻く熱狂、掲げられる正義、堕落を伴う熱烈な愛。

当事者同士の記憶の中では、ものすごく価値のある瞬間として刻まれるであろうそれらは、虚構と限りなく接近した現実の外縁に息づいているいるような気がする。

その虚構との距離の近さに、白々しさを感じたり、嘘臭さを感じる。

 

だが一方、それを生きるよすがとする、というのもごく自然に為されることだ。

 

人は夢を持とうとする。

いや、もっと正確に言うなら、人は夢を持った方がいいと言われている。

もちろん小生にも夢はある。

果たして、その夢は現実の荒野に転がっているのか、それとも現実の外縁、虚構との隙間にある、そのわずかな隔たりに、辛うじて存在しているのか。

 

現実に辟易しているからこそ、虚構と現実の狭間にある、それゆえに虚構とも言えず、現実とも言えないものを志向しているのかもしれない。

 

いや、現実にないものを志向するからこそ「夢」なのであれば、それはある段階までは虚構であるはずだ。

では、その虚構が現実に姿を見せる時は来るのか。

 

堂々めぐりである。

こうなってくると何が現実かはわからない、というのが正直なところだ。

 

実存を疑うわけではない。

だが、「現実」と小生たちが呼称するそれは、どこまで純粋に『現実』なのか。

分からない。

 

いや、だからこそ面白いとも言えるのだが。

 

なんにせよ、足掻いている奴が最も美しい。

 

その足掻く姿は、虚構の中にあってこそ、人の目を引きつけるのかもしれない。

虚構は虚構であるがゆえに、軽々と現実を越えてゆける。

だが、一方でその虚構があまりにも虚構然としていると、途端に陳腐なものになる。

 

虚構の中に、どれほどの現実を息づかせるのか。

 

これはそのまま、現実の中にどれほどの虚構を息づかせるのか、ということにもなる。

 

どうなのだろう。

 

分からないことは分からないままに。

後味は悪いくらいが丁度いいのかもしれない。

 

そうならざるを得ないから、足掻くということなんだろうし、もし後味の良いものばかりしたためるとすれば、それは小生の陳腐さの表れになると思っている。

 

だから多分、再びこのことについて考えてしたためる時が、遅かれ早かれくるのだろう。

この思考は続いていく。

どの思考も続いていくことは変わらないのだが、これは特に複雑に絡まり合って容易には解消できそうもない。

 

また、したためる時にもお読みいただけるなら、幸いである。

結果論

「結果論」という言葉は諸刃の剣だと思っている。


時にそれはプロセスを無に帰し、また逆にプロセスへの注目を促すこともある。


言葉の用い方、同じ言葉を使うにしても、それが最終的に何への指向性を持つのかには常に気をつけていたい。

自分が用いるときにも、受容するときにも。


と、まぁここまでの話しは単なる前置きである。


今回、小生がしたためたいのは、恋愛における結果論。


昨今、LGBTという言葉は広く知られるようになっている。

総括して『性的マイノリティ』と呼称されているが、小生はこの呼び方にかなりの違和を感じている。


自分がヘテロセクシャルなのか、ホモセクシャルなのか、バイセクシャルなのか。

トランスジェンダーなのか、それともどれにも当てはまらない性のグラデーションに在るのか。


そんなのは結果論なんじゃないかという気がする。


小生自身は、いま現在、ヘテロセクシャル異性愛者であろうと、自己を規定している。


だが、この先、何らかのきっかけで、ある男性のことを好きになることもあるかもしれない。

そのとき小生は、自身がトランスジェンダーであることに気づくかも知れないし、ゲイであると気づくのかも知れない。


「この先も俺はずっと異性愛者だ」という言明を小生がするとしよう。

それは、単なる思い込みの域を出ない。

自己をそう規定するから、そうなる。

その自己の規定は、おそらく従来の社会通念から影響を受けてのものだろう。


そういう意味で言えば、そもそも「男性」「女性」「それ以外」のような分類自体が疑わしい。

確かに遺伝子的に、体の構造的に分類することは可能かもしれない。

ただそこに「男性像」「女性像」のような価値が盲目的に付随するというのは、あまりにも短絡的ではないだろうか。


だから小生はこういうことも疑う。


人が人を好きになるとき、それはその人自身を愛しているのか、それとも、その人に付随した属性を好んでいるだけなのか。


勘違いして欲しくないので記述するが、これは別に、どちらかが純粋であるとか、不純であるとか、個々の恋愛がどちらかの性質にあるといった分断を迫る意図はない。


おそらく、恋愛というのはこの両者が複雑に入り組んでいるし、それをあれこれ考えるのも度が過ぎれば野暮だ。


さて、『性的マイノリティ』と少数であることを殊更に強調する人々がいる一方、対立するマジョリティ自体が本当に存在するのか。

マジョリティをマジョリティ足らしめているのは、単なる思い込みに対する盲目的な追従なのではないか。

もしそうなら、そこにはマイノリティもマジョリティも存在しないはずだ。


各々の在り方を、できるだけ思い込みから遠ざかったところから考え直してみたい。

抱負に代えて

2017年というやつが始まってから、早や十日が経とうとしている。

この時節、巷は”抱負”なる名を冠せられた文言が飛び交う。

 

新年の、あるいは、新成人ならば”大人”としての、実にヴァラエティに富んだそれは、時として、聴く人の身までも引き締まる思いにさせ、また、打って変わって、空疎に聞こえてしまうことも間々ある。

 

小生自身はと言えば、この”抱負”というやつが苦手なのだ。

無論、抱負を語る方々に対する他意はない。

 

ただただ、小生の好き嫌いだけの話だ。

そいつを口にしてしまったが最後、それ以後に為すことはすべて、その口にした文言との差異を以って価値を断ぜられる。

これが小生にはどうも息苦しい。

自らの発する言葉で、自らの足を重くすることになるのである。

 

鮮やかに過ぎる自縄自縛となるのであれば、あえて語る必要はあるまい。

 

そもそも、この世にあって、沈黙の総量の方が圧倒的に多いのである。

言葉はその沈黙を彩る程度がちょうど好い。

あまりに豪奢に、言葉でその身を飾ろうとするのは悪趣味だ。

 

語らずにいられない時に、最も鋭く、相応しい言葉を紡ぐ。

このスタイルは譲れない。

 

本年の抱負に代えて、小生が告げるのは、いつも通りいく、というただそれだけのことである。

 

妙に生々しい365日先のことを見据えるならば、もっと先のことを思い描く。

そして、とにかく目の前に訪れる価値ある一瞬を見逃さないこと。

 

こんな風にいつも通りいく、それだけのことだ。