抱負に代えて
2017年というやつが始まってから、早や十日が経とうとしている。
この時節、巷は”抱負”なる名を冠せられた文言が飛び交う。
新年の、あるいは、新成人ならば”大人”としての、実にヴァラエティに富んだそれは、時として、聴く人の身までも引き締まる思いにさせ、また、打って変わって、空疎に聞こえてしまうことも間々ある。
小生自身はと言えば、この”抱負”というやつが苦手なのだ。
無論、抱負を語る方々に対する他意はない。
ただただ、小生の好き嫌いだけの話だ。
そいつを口にしてしまったが最後、それ以後に為すことはすべて、その口にした文言との差異を以って価値を断ぜられる。
これが小生にはどうも息苦しい。
自らの発する言葉で、自らの足を重くすることになるのである。
鮮やかに過ぎる自縄自縛となるのであれば、あえて語る必要はあるまい。
そもそも、この世にあって、沈黙の総量の方が圧倒的に多いのである。
言葉はその沈黙を彩る程度がちょうど好い。
あまりに豪奢に、言葉でその身を飾ろうとするのは悪趣味だ。
語らずにいられない時に、最も鋭く、相応しい言葉を紡ぐ。
このスタイルは譲れない。
本年の抱負に代えて、小生が告げるのは、いつも通りいく、というただそれだけのことである。
妙に生々しい365日先のことを見据えるならば、もっと先のことを思い描く。
そして、とにかく目の前に訪れる価値ある一瞬を見逃さないこと。
こんな風にいつも通りいく、それだけのことだ。